”「にんげんだもの」を付ければ大抵の行為は美徳とされる。”
とまでは言いませんが、何か自分のミスを正当化する為にこんな言葉を使っているなら要注意です。
免罪符を自ら振りかざして悪事を働く人をどうして許すことができるのか。
例えば、客商売でお客が「お客様は神様だ」と言いながら、
店員に横柄な態度を取る事を誰か許しましたっけ?
”ミスをすることが人間性の表れだ”とか
”こんなところでのミスが私のアイデンティティーだ”なんて思っていないことを願うばかりです。
そんなこんなで、今日は誤字・脱字を繰り返す(同じミスを繰り返す)事について。
ブログ記事やコラムなど長文になるとどうしたって誤字・脱字が出ますね。
そのために別の方の校正が入っていたりします。
仕事やプライベートで使うメールや、SNSなどの短文は別の方に校正してもらう事が難しいので、
どうしても自分で校正しないと、誤字・脱字が外に出てしまいます。
何度もそれを指摘されているのに、何度も繰り返すのは心理学的に説明がつく事もある。というお話です。
誤字・脱字で得られる事がある
端から見るとデメリットしかなさそうなこんな行為でも、本人にはメリットがある。
なんて言ったら納得できますか?
【デメリット】
まずはデメリットについて考えてみましょう。
最初から間違いなく完璧に仕上げる人はそう多くはないでしょうが、
始めの内はそれほどデメリットはありません。
指摘を受けてもしっかりと対応する事で周りの評価を上げる事も可能です。
今回考えるケースは違いますね。
どれだけ指摘されても誤字・脱字をやってくる。
長文・短文問わずに誤字・脱字・・・
指摘してくれた人からは
『あなたの為を思って言ったつもりだったけど、迷惑だったかな』
『聞かない人かな』
誤字・脱字だらけの文章を読んだ人からは
『この文章の正確性はかなり怪しいな』
『このわずか数行の文章すらも見直ししてくれないのか・・・・・・』
こんな評価になってしまいます。
こんな評価を受けるとしても、やる理由があるんです。
誤字・脱字で得られるモノとは?
どうして間違ったまま送れるのか?原因は本人または神のみぞ知るです。
本人に理由を聞いても「見直ししたんですけどね!」で終わる事が多いのではないでしょうか。
もしかしたら、自己認識に”私はタイピングが苦手で、良く間違える”とあるかもしれません。
それすら表面的な原因で、真の原因は
誤字・脱字をすることで、本人すら気づいていない恩恵があるから。
例えば
- 誤字・脱字する人として認識してもらえば、校正しなくて済む
- 文章構成などという大きな部分の指摘を避けられる
- 内容についての指摘を避けられる
- 誤字・脱字の指摘という形で反応してもらうことで、承認欲求を満たす
等々
その状態を直して得られる恩恵よりも、
今受け取っている恩恵の方が大きいと錯覚しているのかもしれません。
「気をつけて」も無くなりません
対策を聞かれると、「気をつけます」とか
「見直す回数を増やします」とか答えていたら無くならないと思っていい。
大抵そう言っている人が同じ事を指摘され続けている。
気をつけているつもりで何も変わっていない。
結局、ミスする事で無意識で恩恵を受け取っているから。
良い事があるから、それを辞める理由なんてないわけ。
本当に変えたいならカウンセリング&コーチングを受けるべきだ。
人を頼るべきだ。
人に言われた事を『そんな事は知っている』とならないことだ。
私流、校正方法
ブログ記事や、LPのコピーのような長文(1000~2000文字)はどこかで間違えます。
だから、自分で校正(チェック)しています。
ポイントは書いた直後ではなくて、1日置いてから校正する事と、
音読する事です。
場合によっては音読時に録音しておいて、音読後に聞いてチェックまでします。
メールやSNSは間を空けずに校正していますが、
声に出して読める環境であれば音読してチェックします。
たかが1文~2文のやりとり。されど大切な会話の1つ。
面と向かって話し合うときと違って、相手は聞き直してくれないかもしれません。
だから、会話よりも外に出すまで時間を掛けます。
あなたが今メールを送る相手は
『誤字・脱字があっても構わない相手ですか?』
『もしそうなら、その相手はビジネス関係ではないですよね?』
コメント
本内容、共感いたします。
本来このようにチェックすれば誤字脱字なんてありえませんね。
ブログならまだ許せますが、日経での誤字脱字は許せませんね。